ロシア連邦議会下院が1991年のリトアニアの主権国家としての承認を撤回する提案を始めた

 

次はリトアニア狙い間違いなし

2022.6.9

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下院にリトアニア共和国の独立承認廃止を訴えているのは与党統一ロシア所属のロシア連邦国家議会副議長エフゲニー・フェドロフ氏。

自国がリトアニア独立を認めた1991年の決定を30年後の現在ひっくり返そうと、ソ連国務院令「リトアニア共和国の独立承認について」の取り消しに関するプロジェクトを州議会に導入しました。

中国と同じく約束は破る為にあるって感じですね。

この件、ロシアウオッチャーの間でも話題となっていました。

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約30年前にリトアニアがソ連からの離脱する過程では、ソ連軍が独立に向けた大衆運動を軍で鎮圧しようとした為、民間人の間にも多数の犠牲者が出ました。

リトアニア国民がひとつになりソ連に抵抗した事と、ソ連崩壊によりなんとか勝ち得た独立でした。

しかし2022年現在、再びリトアニアの主権はロシアに脅かされています。

1991年1月のリトアニア自由の為の戦いについて

リトアニア共和国公式より、ソ連からの独立時の経緯についてお見せします。リトアニアを独立させまいと武力介入するソ連の手口は現在のロシアのウクライナ侵攻のやり方とそっくりです。

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1990年3月11日、リトアニア共和国最高評議会は、リトアニア国民の意志と自然権によってリトアニアの独立回復を宣言しました。

※自然権とは

人間が自然状態(政府ができる以前の状態、法律が制定される以前の状態)の段階から保持している生命・自由・財産・健康に関する不可譲の権利です。基本的人権などが自然権であるとされている。

リトアニアが独立を宣言した時には、ソ連は国力が低下し、もはやリトアニアの決定を抑制する事はできなかったが、それでも威嚇を続け、軍事力を誇示し、自由への願望を暴力によって破壊する事を望んでいました。

リトアニア国民の独立への姿勢が試されたのは、1991年1月、ソ連のリトアニア国家に対する軍事侵攻の時でした。

何千人もの非武装の人々が、戦車とサブマシンガンで武装したソ連の空挺部隊に立ち向かわねばならない事態が発生しました。

当時の最も重要な成果は危機に直面したリトアニア国民が一致団結した事でしたが、それと同様に重要なのは、リトアニア国会がソ連に抵抗し、降伏しないという断固とした態度をとった事でした。1991年1月の非武装のリトアニア人々に対するソ連による暴力と犠牲者は、西側世界の注目を集め、良心を目覚めさせました。

1991年に起こったソ連のリトアニア国会議事堂襲撃にソ連が失敗した事が、独立を宣言したリトアニア国家に対する軍事侵攻の始まりとなりました。

1991年1月はリトアニア独立という新たな希望とともに、新たな危機が始まった年。

リトアニアが独立宣言した1990年末の時点でもリトアニア共和国にはソ連占領軍の軍隊が配備されており、軍用車両が定期的に都市の通りをパトロールしていました。特に、18歳未満のリトアニア人青少年をソ連軍に強制徴用し、リトアニア人を迫害したことは緊張を高めました。

1991年1月7日、バルト三国すべてにソ連の軍事的な援軍が送られた。

リトアニアにはソ連軍の特殊空挺師団が派遣され、若者を強制的にソ連軍に徴兵しており、リトアニア共和国の指導者達は若者達に危険を警告し、ソ連軍への徴兵に応じないように促しました。

1991年1月7日から8日にかけての夜、100台以上のソ連軍の戦車や装甲車がビリニュスの大通りに出現。厳しい経済状況に加え、リトアニア共和国政府が増税を決定した事も状況を悪化させました。

1991年1月8日、リトアニアの独立回復に抗議する親ソ連の数千人の群衆が、物価上昇を口実にリトアニア共和国の最高評議会を襲撃し、合法的に選出されたリトアニア国家の政府を転覆させようとしました。

その日、本会議が近づくと首都ヴィリニュスの工場で働くロシア語を話す労働者や、その様な格好をしたソ連抑圧機構の役人を中心に数千人の親ソ連派デモ隊が国会の中庭に集まってきました。

リトアニア国会指導者は親ソ連デモ隊との対話を模索したが、攻撃的な群衆は国会議事堂を攻撃し、石やドリルで国会正面の窓をいくつか割り、正面玄関の真鍮の扉を壊しました。

数人のデモ隊が議事堂の中に入ったが、国会守備隊がすぐに退散させ群衆を一時的にクールダウンさせています。

リトアニア共和国最高評議会議長Vytautas Landsbergisは、国会議事堂襲撃を受けてリトアニア国民に向けてラジオ演説を行い、リトアニアの独立を守る為に国会議事堂に来るよう呼びかけました。

リトアニア政府を支持する呼びかけに応じたビリニュス市民は、平和的にソ連デモ隊を国会議事堂の中庭から追い出しました。

その直後、リトアニア共和国最高評議会は、増税を「凍結」する決議を採択。

ヴィタウタス・ランズベルギス(Vytautas Landsbergis)は、宮殿の3階の窓から、国会の外に集まった人々にこの決定を告げます。

その日の夕方、増税を主導した政府のカジミラ・プルンスキーネ首相と彼女を中心とする閣僚が辞任。

リトアニア独立法に署名したヴィルジリウス・チェパイティス氏は、「あの日(1991年1月8日)、会期中に、最高会議場の前のトンネルを装甲兵員輸送車が走り抜ける轟音が聞こえた」と、当日の不吉な雰囲気を語っています。

空挺部隊を乗せた飛行機がKėdainiaiやŠiauliaiなどの軍用飛行場に着陸している事、機動部隊の本部が軍用北部の町Vilniusで活動を始めている事も知っていました 。

※1991年1月8日にKGBの特殊部隊アルファ部隊がリトアニアに投入されています。

こうしてソ連による軍事的脅威が高まる中、リトアニア市民は、リトアニア独立回復のために国会議事堂の警備に当たって欲しいという呼びかけに応じました。

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その直後、ソ連はリトアニア共和国に対して最後通牒を発した。

1991年1月10日、ゴルバチョフはリトアニア共和国ではなく、リトアニアSSR最高会議宛てにソ連憲法とリトアニアSSR憲法の即時完全復活、すなわち1990年3月11日以前の現状復帰を要求する最後通牒を送付してきました。

リトアニア共和国最高評議会は最後通牒を拒否したが、ソ連指導部はリトアニアに展開するソ連の軍事機構に支えられ、政府に不満を持つ「リトアニア人」の姿を演出しようと試みた。

翌1991年1月11日、親ソ連組織「ジェディンストヴォ」は、リトアニア共和国最高会議へのデモ隊による行進を組織し、ソ連の要求を受け入れるよう要求。

リトアニア独立を支持する数千人の人々がジェディンストヴォの前に立ちはだかり、危機的な状況にもかかわらず、挑発的な行動は避けられました。

同じ91年1月11日、ソ連軍は公然とリトアニアに暴力を振るった。

1月10日から11日の夜から朝にかけて、ソ連占領軍の動きが報告され、ソ連のヴィリニュス駐屯地の司令官は、リトアニア議会にヴィリニュスでソ連が軍事演習を始めますよと皮肉った。

この日、ソ連軍は首都ビリニュスを含むリトアニア共和国の各都市で公共機関の建物の占拠を始めます。

人々はこれらの建物の前に集まり、リトアニアの独立を守る為の生きたバリケードとなりました。午前11時45分、Viršuliškėsにあるリトアニア共和国国防省の建物が占拠され、ソ連軍は首都との通信を遮断。

列車はビリニュスに入る事ができず、飛行機はビリニュス空港に離発着する事ができませんでした。

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1991年1月11日、ソ連はリトアニアの自由で独立した報道機関を制圧しようと行動を開始。

リトアニア国民の客観的な情報へのアクセスを制限しようとしました。昼にはソ連軍が国防省の建物を占拠し、報道施設と印刷所も占拠しました。

ソ連軍は記者会見場に現れ、建物を守ろうとした無防備な人々と対峙した。戦車砲や空挺部隊の自動小銃が市向けられています。報道施設のファサードは砲撃され、プラスチック弾が投げつけられ、無防備な守備隊は機関銃で殴打されました。

一人は頬を撃たれ、他の数人は銃弾で負傷し、作業車の運転手は戦車と衝突して重傷を負った。

ソ連軍が報道施設を占拠した後、リトアニアの主要な新聞の発行は数日間中断された。

しかし、その翌日の1月12日には、13の出版社の編集者が作ったリトアニア語、ロシア語、ポーランド語の共同新聞「Laisva Lietuva」の創刊号が発行されたのである。編集者はこう宣言しました。"集中力と真剣さと威厳があってこそ、我々は占領者の残忍な力に抵抗する事ができるし、これからもできる "と。

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「血の日曜日事件」発生

1月13日は、痛ましい損失と英雄的犠牲の経験としてリトアニア人の記憶に深く刻み込まれる事となりました。

1991年1月13日の夜、無防備なリトアニアの人々は、ソ連軍の残忍な攻撃に耐えていた。武装した落下傘部隊が塔を囲む人々を攻撃しました。

戦車や装甲兵員輸送車が非武装の人達に真っ直ぐ突っ込んでいった。

命の危険を感じながらも、多くの人が負傷者の救出に駆けつけ、約1,000人が銃創、切り傷、打撲、骨折、難聴など、様々な傷害を負った人を救助しました。

その夜、ビリニュスでは14人の勇敢な若い独立守護者達が、銃弾や戦車によって殺されます。

1月13日の血生臭い夜の後、何十万人もの人々がリトアニアの自由の象徴であるリトアニア議会を守る為に集まってきました。

国会が攻撃された場合、リトアニア共和国政府に対する国民の断固とした揺るぎない支持は極めて重要であった。1991年1月13日の夜以降、国会前の独立広場には10万人以上の人々が集まり、中には周囲のビルや建設現場の屋上で警備に当たる人々もいた。

国会を襲撃すれば、更に多くの犠牲者が出る事が明らかになったので、侵略者は躊躇なくリトアニア国会議事堂を攻撃したのである。

降伏せず抵抗する国会の毅然とした態度も同様に重要であったが、当時の最も重要な成果は、危機に直面した国民の団結力であった。

1月の侵略の数日間、独立広場では、雨天と氷点下が続く中、旗やスローガン、ポスターを持った数万人の人々が、自由なリトアニアの象徴であるリトアニア議会を守る為に24時間待機していたのである。

リトアニアの町や村の人々は、組織されたグループやバスでビリニュスに移動し、選出された代議士や政府のメンバーを交代で保護しました。

リトアニア人だけでなく、ロシア人、ポーランド人、ベラルーシ人、ウクライナ人、その他のリトアニア民族の代表も広場にいた。いずれも独立広場にはリトアニアの三色旗と並んで自国の国旗が掲げられていました。

老いも若きも、男も女も、そして子供も、並んで立っていた。

若者達の特徴は、独立広場に隣接する家々の屋根や建築現場を防衛や偵察の拠点に選び、危険を察知する勇気であった。暴力に直面して団結した姿勢は、リトアニア国民と政治指導者の意識と、共通の目標のために団結する力を示しました。

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リトアニア共和国最高評議会、自主的国防軍を設立

1990年3月11日に独立を回復したリトアニアは、侵略者に対抗できるような武力を持っていなかった。

1990年秋、リトアニアで最初のボランティア部隊が設立され始め、年末、リトアニアの脅威が明らかになると、ボランティアは最も重要な国家施設の保護を任される事になりました。

この悲劇的な出来事の後、1991年1月17日にリトアニア共和国最高会議によって採択された法律により、自主防衛制度が確立。

1991年1月に最高会議室に集まり、リトアニア国を守る事を誓った人達はすべて志願兵と呼ばれた。ある者は直接街頭から、ある者はリトアニアのソンジュディから招かれて、組織の将校、国境警備隊、税関職員、最高会議保安部職員、等だった。

1991年1月17日の悲劇的な出来事の後、リトアニア共和国最高評議会は、国防制度に自発的国防奉仕を設置する法律を採択した。これは、志願兵の兵役を正式に合法化するものであった。

ソ連が崩壊し、1991年8月にモスクワでソ連体制が崩壊するまで、最高会議場の当番であるボランティアたちは落ち着かない日々を過ごした。宮殿内には、守衛所や防御陣地が設けられ、勤務時間外には軍事訓練が行われた。

クラクーナスとメディニンカイの国境ではリトアニア共和国の役人が殺され、ソ連が崩壊した1991年8月21日には、義勇兵アルチュラス・サカラウスカスがリトアニア共和国の最高評議会を守る為に殺害される事件が起きました。

リトアニア国民の最後の勝利は、ソ連の記念碑との別れに象徴されるものであった。

モスクワでの軍事政権が崩壊した後、リトアニア議会と政府は、リトアニア共和国の領土に対する支配を確保するたに積極的な措置を取った。

リトアニア共和国は、225日間ソビエトに占領されていた報道施設、リトアニアラジオ・テレビビル、ビリニュスTVタワーを奪還したのである。

1991年8月23日夜、午後6時20分頃、ルキスケス広場で高さ4メートルのレーニン像が倒された。

このモニュメントは、1952年以来、KGBの建物の前に立っていた。この像は、持ち上げられる際に膝の部分が割れて壊れてしまった。広場から像が撤去されるとき、凱旋したリトアニアの人々は台座の上に乗って愛国歌を歌った。この行動により、リトアニアのソ連に対する自由闘争は終焉を迎えた。同じ日、リガとタリンでは占領帝国の象徴であるレーニン像が倒された。

この様にリトアニア国民が一致団結し犠牲を払いながらも、自由を求めて必死に戦って勝ち得たソ連からの独立でしたが、現在ロシアにより再び悪夢が蘇ろうとしています。

リトアニアがウクライナをあれほどにサポートする動機はこの辺りにあると思われます。

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現在、ロシア大使館がプーチン大統領の発言として

「誰も傷つけることがないよう、今は例を上げるのはやめておく。しかし国や国家集団が主権による決定を下せない状況にあるとしたら、これはもう明らかに植民地と言ってよい。

植民地には歴史的見通しがなく、かくも厳しい地政学的闘争を生き残るチャンスもない」等と言っていますが、リトアニアやウクライナ、日本を念頭に西側諸国についている状態を皮肉りながら自国が行っている行動を正当化している物と思われます。

今回のリトアニア独立否定などにも通じるものがあります。このロジックを東欧諸国に適用していく事でしょう。

皮肉な事に他国の主権を否定し侵略を繰り返すロシアが言うと説得力がある意味ありますねw