日本が大東亜戦争(第二次世界大戦)に入って行った経緯。教科書が見せない側面。

 

大英帝国を中心とした欧米が清をズタボロにしたのを脅威と見た日本が、安全保障の為に中国大陸に出ていった様子。

 

Photo Atul Vinayak

· 初心者用,【最新ニュース】,Daily News

長男が最近、「日本が第二次世界大戦に向かって行った前後を知りたい」と質問をしてきたので、長男の為に作った資料です。(高校生の長男は、今はG7を追っていたりと兎に角、政治や社会情勢に強く興味があり毎日私に質問攻なんです💦)

日本が第二次大戦に向かう迄の欧米、中国朝鮮半島とどの様に絡み合いながら進んでいったのか簡単に纏めてみました。

先ず、中国に日本が進出するきっかけになったのが、1800年代の英国を中心とした西欧による中国への侵略です。

1800年代、清王朝は貿易港を広州のみに限定して広東十三行と呼ばれる組合組織を通してのみ、交易を許可していました。

【https://www.bilibili.com/video/BV1dY4y1c72f/?share_source=copy_web

そんな中、大英帝国が現れます。

清は大英帝国にも朝貢伝統を要求した為、大英帝国は東インド会社を活用して三角貿易を構築、嫌がらせか清国内にアヘンを不正流入させました。

清は大英帝国のアヘン輸出を徹底的に取締り開始。

それにキレた大英帝国は1840年にアヘン戦争を起こしました。

https://youtu.be/f32MPPBJOjU

清は瞬殺され、南京条約によって香港が英国に割譲され、上海などの開港・公行の廃止・戦争賠償金の支払いも決まってしまいました。

片務的最恵国待遇が適用され、清は他の列強諸国とも次々に不平等条約を結ぶ事に。

清国民も荒れ始め太平天国の乱等を起こして鎮圧されてしまいます。

こうした中、清国民の不満で起きた1856年に起きた英国船アロー拿捕号事件の報復として、大英帝国はフランスと共同で清に対してアロー戦争を仕掛けました。

https://youtu.be/bws5VUamvoM

清は再び瞬殺されましたが、敗戦後の天津条約(清国と諸外国間に締結された17条約の通称)の批准に武力で反抗した為、大英帝国とフランスは天津を占領、北京をも占領したので、ロシアが仲介し1860年の北京条約が締結され、天津の開港や外国公使の北京駐在、九竜半島南端の英国への割譲もペナルティとして追加されました。

江戸幕府はこうして大英帝国や米国、フランスが清を食い散らかす様をじっと見ていたのです。

1840年のアヘン戦争で清が食い散らかされる様は、江戸幕府に大きな衝撃を与えました。
次は我が国だと。

徳川幕府はこの情勢を「近代的に分析」し、1825年に出した異国船打払令を、天保の薪水給与令(しんすいきゅうよれい)に緩和する事を1842年に決めて鎖国体制が崩壊していきます。(現在の国力では清の様に食われると見たのでしょう)

しかし、抜本的な対策が取れないまま1853年にペリーの黒船来航で開国を迫られ、翌年から米国やその他の列強と次々に不平等条約を結ぶ事に。

こうした情勢を見た薩摩藩・長州藩から尊王攘夷が沸き起こり、1867年の大政奉還と王政復古の大号令で幕藩体制が終焉、明治維新となりました。

徳川幕府は清が侵略された様子を見て対策をしたが上手くいかず、外圧による国内混乱で滅んだ様なものなのです。

https://youtu.be/6OL_NjhSDCw

大英帝国等によりズタボロになった清は、近代国家として発展しつつある明治政府と接近、清はついに日清修好条規を結びます。
これは日清相互に治外法権と領事裁判権を承認し合う事による平等条約であり、ここに中華思想に基づく冊封・朝貢関係が崩壊し、近代的な国交関係が日清の間で確立しました。

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因みに、1874年に台湾で琉球の漁民が殺害された事への対処として日本軍が台湾出兵。 1879年、琉球処分により琉球藩が沖縄県になりました。

当時、朝鮮半島は東アジアにおいて地政学的に攻守上重要な位置を占めていました。
ダモレスクの剣と呼ばれる程に。

明治政府はイギリス、フランス、ドイツ、ロシアなどを始めとする欧米列強が清に何をしていたかを見ていた為、安全保障上の理由から、大陸からの玄関口である朝鮮半島(李氏朝鮮)に対し日本への開国を要求します。

https://youtu.be/80jL7EZbr84

李氏朝鮮は開国を否定し日本を仮洋夷(西洋に毒された国)として断交しました。
その為、日本では李氏朝鮮開国拒否問題を発端に西郷隆盛・板垣退助・江藤新平らによる征韓論が展開します。

そんな中、1875年(明治8年)9月20日に朝鮮の首府漢城の北西岸、漢江の河口に位置する江華島付近で日本と朝鮮の間で起こった武力衝突事件である江華島事件が起きました。

李氏朝鮮は明治政府に譲り、日朝修好条規が結ばれ、李氏朝鮮は「開国」します。

その後、明治政府と清の間で朝鮮半島の覇権を巡り様々なゴタゴタがありましたが、1885年に伊藤博文と李鴻章の間で天津条約が結ばれ、日清両軍が朝鮮から撤退する事が決定。

将来、朝鮮の変乱に日清両国が出兵する場合は事前に相互通知する事も決めました。

1894年(明治27年)1月上旬、
李氏朝鮮の重税に苦しむ朝鮮民衆が宗教結社の東学党の指導下で蜂起し、大規模な農民反乱が勃発。

自力での鎮圧が不可能な事を悟った李氏朝鮮政府は、宗主国である清国の来援を求めます。

清国側の派兵の動きを見た日本政府も締結していた天津条約に基づいて出兵。それが日清戦争に発展しました。

https://youtu.be/LdWY8aWxNL4

日清戦争で清は日本に瞬殺され、翌1895年に下関条約で遼東半島・台湾を日本に割譲する事や法外な戦争賠償金の支払いなどを認めました。
これにより台湾に総督府が設置される事になり、日本の台湾統治が終戦まで続きます。

清国内では租界や租借地が形成されて「列強による分割」も加速度的に進行。

1900年には、義和団が「扶清滅洋」~清を助け洋を滅ぼす~を唱えて反帝国主義運動を展開しました。

https://youtu.be/LzoLR3-O998
清朝廷はこの北清事変を支持したが、満洲や朝鮮半島の利害を巡って対立していた日露や他の列強の八カ国連合軍による軍事介入と、北京議定書によって外国軍が北京に駐留することに。

清は巨額の賠償金を請求されて更に弱体化する一方となりました。

この頃、ロシア帝国は満洲支配を強める傾向にあり、明治政府はロシア帝国の南下政策に共通の懸念を持っていた大英帝国と1902年に日英同盟を締結してロシア帝国との対決姿勢を整え、1904年に日露戦争を開始。

https://youtu.be/KZ-7CKeBMhk

ご存じの通り日本が勝利し、米国大統領の仲介でポーツマス条約が結ばれ日本の満洲と大韓帝国の権益が確保されました。

1911年、中国大陸では孫文による辛亥革命が起こり、宣統帝(愛新覚羅薄儀)が退位し、翌年の1912年には孫文を臨時大総統とし中華民国臨時政府が南京で成立。
中華民国憲法発布に伴って宣統帝を総理として支え、孫文らを弾圧していた袁世凱が1913年に北京で正式な中華民国初代大総統に就任。

北京政府打倒を目指していた孫文は1919年に広州で中国国民党を決起。張作霖ら中国東北部を割拠している北洋軍閥の征伐と反帝国主義運動を開始しました。

https://youtu.be/go1SO8YsT-Y

1920年、ロシア革命により成立したソビエト連邦の傘下にあったコミンテルンの革命援助によって陳独秀らは1921年に上海で中国共産党を結成。陳独秀はマルクス主義に傾倒し、上海でコミンテルンと連絡を取りながら準備を進めていました。「中国共産党初代総書記」です。

コミンテルンの後ろ盾もあり、1924年に国民党は第一次国共合作で共産党を迎え入れ、反帝国主義運動を全国へ波及させます。コミンテルンから派遣されたロシア人政治顧問ボロディンがコンサルもしていた様です。

https://youtu.be/vt32l14geFo
レーニンが立ち上げたコミンテルン(共産主義インターナショナル)とは
コミンテルン(共産主義インターナショナル)は、世界資本主義秩序の終焉を宣言し、1919年3月にモスクワで設立された世界的な組織です。

第三インターナショナルとも呼ばれる世界共産主義を標榜するソ連支配の国際組織。コミンテルンは第2回大会で「国際ブルジョアジーの打倒と国家の完全な廃止への移行段階としての国際ソビエト共和国の創設の為に武力を含むあらゆる利用可能な手段によって闘う事を決議しています。

ソ連の指導者スターリンは、第二次世界大戦後期に、アメリカやイギリスとの敵対を避ける為、1943年にコミンテルンを解散させました。そして1947年、コミンフォルムに引き継がれます。

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何故、コミンテルンが立ち上げた中国共産党が危険なのか?、我々とは相容れないのが誰にでも分かるように端的に言うなら「中国共産党はコミンテルンの指導のもと、マルクス共産主義を実践し世界から資本主義秩序を終わらせる為に作られた」からです。

1919年モスクワでレーニンが世界から資本主義を駆逐するとコミンテルン立ち上げ

1921年にコミンテルン指導のもとマルクス共産主義を経典とする中国共産党が立ち上げられた

現在もこれを達成する為に、資本主義社会に寄生し内部から破壊する為に未だ活動を続けています。

話を1920年代の中国に戻します。

国民革命軍は1926年に北伐開始。蔣介石に率いられて広東省から出発し破竹の勢いで南京・上海を占拠を行いました。この際、南京事件、漢口事件など、日本人を始めとする外国領事館、居留民への攻撃を開始。

※南京事件(中国が騒ぐデマである南京大虐殺とは別)とは、1927年、北方遠征軍による南京攻略の際に起こった激しい排外主義的な事件です。

日本ではこの事件についてあまり語られる事は無いですが、国民党政府や諸外国は、この事件が北方遠征軍に潜む共産党員によって扇動されたものと考えていた事が中国メディアなどでも報道されています。

日本の外務大臣幣原 喜重郎(しではら きじゅうろう)は、中国共産党が列強の介入を誘う為に南京事件を仕組んだと考えていたと言われています。

その目的は、蒋介石を攻撃させる為に北伐に列強を介入させる事でした。

もし蒋介石が列強に妥協して謝罪した場合 、親共産勢力はこの問題を利用して国民党の右派を粛清できる。そうでなければ、蒋介石の直属部隊を列強と争わせ、蒋介石を排除する目的を達成する事も出来る。

南京事件では、朝方南京に入った国民革命軍第二軍と第六軍が、イギリス、アメリカ、日本の領事館や外国人の店や家の略奪を始め、午後5時まで続けられた。 南京と下関の外国領事館、教会、学校、商館、病院、外国人宅はすべて侵略され、略奪されています。 イギリス領事館と日本領事館が攻撃の主要な標的となりました。

特に、イギリス領事は市の中心部に引き摺り出された後、青龍刀で斬首され、イギリス領事の妻は北方遠征軍の兵士27人に輪姦され重傷を負い、数百人の外国人女性が北方遠征軍の兵士に強姦されました。 北方遠征軍の「残虐行為」は列強に衝撃を与え、 長江にいた英米の軍艦が報復の為に砲撃を開始し、南京市民2,000人以上が犠牲になりました。 しかし、日本の軍艦は政府から砲撃しないよう命じられ、日本艦隊の司令官は上海に帰航し自決しました。 遺書には、「砲撃するなと命令されたのに、海軍は駐在員を守れなかった」「同胞に顔向けができない」と書かれていました。 日本の報道によると、南京事件では5人の日本人が重傷を負い、35人が強姦されたという。

https://www.secretchina.com/news/gb/2021/05/28/971721.html

この時から中国共産党は混乱を起こす為に、平気で無関係の市民を犠牲にしていますね。

当時の国際情勢は世界の覇権国が大英帝国から米国に変わりつつあり、ウッドロウ・ウィルソンが十四か条の平和原則を示して国際連盟が設立される、ヴェルサイユ体制下にありました。

https://youtu.be/R24PqG0mjKE

日本は常任理事国として国際連盟に設立と同時に加盟。

その後、金融恐慌・昭和恐慌のあおりで慢性的な恐慌に苦しんでいた日本では「満蒙(満州および 内蒙古 のこと)は日本の生命線」などの意見が盛んになっていました。この辺りから欧米と日本の利害が衝突し始めます。

東方会議(対中国・満洲政策を決定する為に開催した会議)の方針によって満鉄付属地の守備隊として旅順に駐留していた日本の関東軍は、居留邦人保護の為、3回の山東出兵を行い、北洋軍閥の奉天派であった張作霖を抱き込む事態に進展しました。

1928年に北京政府が陥落し、張作霖の脱走行為を見限った関東軍は奉天で張作霖を爆死させる事件を起こしました。※この件に関しては最近、ソ連製の爆弾が使われていたこと等から別の勢力の犯行も疑われています。

やがて、国民党による南京国民政府が中国大陸を統一。蔣介石が主席に就任。

一方で、中国共産党は農村部を中心に基盤を固め、毛沢東を筆頭に中華ソビエト共和国の樹立にこぎつけていた。

※1931年11月7日、中国共産党は江西省瑞金に「中国ソビエト共和国」を設立した。中華人民共和国の正式な前身である中華ソビエト共和国は徹底した反中政権である。

ソ連共産党、

中国ソビエト共和国の樹立促進を指示。

あまり知られていない歴史的な事実ですが、中国共産党は1921年7月、ソ連共産党の指導の下、共産主義インターナショナル支部として設立され、ソ連共産党の中国における代理人となり、当時の中国の合法政府である中華民国を破壊する方法を模索していました。

そして1929年、中国とソ連の間で武力衝突が起こります。 中国はソ連が支配する東北部の東清鉄道1896年、露清密約により清がロシアに敷設権を与えた満州を横断する鉄道、シベリア鉄道で迂回せずウラジヴォストークと結ぶ、ロシアの東方進出の大動脈を奪還しようとし、ソ連も東清鉄道を巡り中国を攻撃しました。

https://youtu.be/PZz535H9Y3Y

同時に、ソ連共産党は共産主義インターナショナルを通じて指示を出し続け、中国共産党に中国ソビエト共和国の樹立を促しました。※これはロシアでも大きな歴史として報道されています

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1929年、共産主義インターナショナルは、中共中央委員会に4回連続で指示書を送り、中国ソビエト政権の創設を加速するよう促した事が記録されています。

1930年7月23日、共産主義インターナショナル執行委員会政治事務局が採択した「中国に関する決議」は、「共産党の最初の、そして最も重要な任務は、中国におけるソビエト中央政府の形成である」と述べている。

その5日後、コミンテルンは共産党政治局とコミンテルン極東局に電報を送り、共産党にとって最も安全な中国の地域で中国ソビエト中央政府を樹立するよう要請。

1930年7月27日、共産党の赤軍第三軍が長沙を占領。 このニュースがモスクワに届くと、ソ連共産党の『プラウダ』とコミンテルンの『国際ニュース速報』は社説や記事を掲載し、中共に対して「既に設立されたすべてのソ連地域を統合し」「ソ連の権力の中心を確立する」よう促しました。

1930年8月、国際共産主義者連盟東部部が採択した「中国ソビエト問題に関する決議」は、村ソビエト、郷ソビエト、郡ソビエト、省ソビエト、更には国家「中国ソビエト共和国」の設立について詳細に指示しました。

1931年2月20日、共産主義インターナショナル執行委員会東部書記は、中国共産党中央委員会極東支局に「中国中央ソビエト政府の設立問題」について電報を打ち、「中国におけるソビエト連邦中央局およびソビエトの文官機関の設立をこれ以上遅らせることは極めて危険だと考える。 基地地域と規律ある赤軍の確立に支障をきたすでしょう。 断固とした措置をとって、直ちに中央局を赣南(江西省の南部)に設立してください」と伝えています。

1931年8月、共産主義インターナショナル執行委員会事務局は「中国共産党の任務に関する決議」を採択しました。

それから1カ月も経たない9月18日、日本の関東軍は、瀋陽から7.5キロほど離れた柳条湖で小型爆薬を爆発させ、南満州鉄道の一部を爆破させています。 日本軍はこれを中国兵の仕業と主張し、開戦の口実としました。 これが「九・一八事件」です。 その後、関東軍は3カ月で中国東北部の3省をすべて占領。(諸説あり)

この時、中国共産党は、江西省瑞金市に中国ソビエト共和国を建国。

1931年11月7日午後7時、共産党は瑞金市の迎賓村で所謂「建国式」を行いました。

午後2時、迎賓村の謝祖師堂で中国ソビエト第一回全国大会が開かれた。

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建国時期、憲法、国名、国体、国旗、紋章など、すべてソ連色に満ちています。

先ず、ロシア十月革命の記念日である11月7日中国ソビエト共和国は設立されました。 ロシア十月革命は、1917年11月7日、ロシア暦10月25日に起こりました。 また、1922年に建国されたソビエト社会主義共和国連邦(通称:ソ連)の建国記念日でもあります。

所謂「中国ソビエト共和国憲法要綱」は、1927年のソビエト社会主義共和国連邦憲法に基づくものです。

名称の「ソビエト」は、ソビエト連邦の名称に由来します。 その国家形態はソ連と同じ「ソビエト」型です。 議会は「中央執行委員会」、政府は「人民評議会」、「9省1局」の「省」は「人民委員会省」と呼ばれています。 その政府は「人民委員会」、「局」は「国家政治安全局」と呼ばれ、これらはすべてソ連から直接移植されたもの。

しかも中国ソビエト共和国の国旗は、ソビエトの国旗と同じ赤色を背景にしています。 その上のハンマーとカマはソ連国旗から、黄色の五芒星もソ連国旗から。 麦の穂、大地、ハンマー、鎌、紋章の文字はすべてソ連の紋章に由来するもの。 コインにもソ連共産党の指導者レーニンの頭部が描かれています。

中国ソビエト連邦は、外交のあらゆる面でソビエト連邦を参考にし、形式を丸ごとコピー

中国ソビエト共和国臨時政府の対外宣言には、「世界で唯一のプロレタリアートの祖国であるソビエト連邦の最良の友であり同盟国である 」と記されていました。

実は、この極端な親ソの考え方は理解するのが難しくない。 ソ連共産党はソ連の利益の為に国際組織「共産主義インターナショナル」を設立し、中国共産党は共産主義インターナショナルの支部であった為、ソ連共産党の命令で何でもやっていたという関係に基づいているからです。 中国共産党が設立を命じられた「中国ソビエト共和国」は、実はソビエト連邦の属国であり、ソビエト連邦の利益を至上の利益としていたのです。

これが日本の教科書が触れない、現在の中国政府の生い立ちです。

話を戻します。

1931年、満洲事変(関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領)が発生。

1932年の日満議定書によって中国東北部に日本の支援のもと溥儀が「満洲国」を建国。

https://youtu.be/Q2gvVEJemd8

こちらは満州国国歌です。日本語。

米英はこの日本の動きに対して反発を強め、国際連盟は中華民国側の提訴を受けてリットン調査団を満洲に派遣、その報告を踏まえた上で「満洲国建国は満洲族の自発的な民族自決運動である」とする日本側の見解を認めませんでした。

満州事変に関する現地調査委員会である「リットン調査団」が作成した「リットン報告書」です。

「満洲国」は日本軍の存在と日本の文武官憲の活動がなければ成立しなかったとリットン報告書は指摘し、その上で、日中間の紛争解決の為には、事態解決の原則及び条件として、日中双方の利益と両立する事や満州における日本の利益の承認、日中間の新たな条約関係の設定など10項目を明示していました。そして、報告書は上記の条件に合致する一つの方法として、日中両国を連盟理事会に招請して、東三省(満州)に特別な行政組織を設置することを審議・勧告する為の諮問会議の開催などを提議。
しかし、日本側は事前に報告書の全貌を掴みながら、報告書公表前の1932年9月15日に「満洲国」を承認しました。これにより、日本は連盟内で孤立を深め、1933年(昭和8年)3月27日には国際連盟を脱退する事となりました。

1937年、盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が勃発。

https://youtu.be/mTkRBg2Dwz0

日本軍はナチスのファルケンハウゼンによる国民政府の戦略に苦戦しながらも、中国軍が周到に用意していた要塞線ゼークト・ラインを突破し、国民政府の首都が置かれていた南京を制圧する事に成功。

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いったん停戦協定が結ばれたが、それでも廊坊事件、広安門事件、通州事件などの中国の挑発行為は幾度も起きました。
通州事件で日本人女性が何をされたかの詳細はあまりに凄まじく、ここでは触れませんが、若い方には知っておいて頂きたい事件です。

https://youtu.be/DPEkV-CjdE4

1938年、首都南京陥落後も徹底抗戦を主張する蔣介石に対し近衛文麿内閣は、日本政府が提示する講和条件を受け入れれば停戦の即時受け入れと、これまで日本が結んできた不平等条約を無効化する事を約束、一方で否定すれば中国大陸での交渉対象(蔣政権を正式な交渉相手として認めない)から外す事を言明。

こんな中、近衛内閣はナチス・ドイツやイタリア王国と共に三国防共協定・三国同盟を結びました。

https://youtu.be/FnUVudy7CxE

この辺りで日本と欧米の対立は決定的になります。

日本の中国進出を警戒する米国などの国は、援蔣ルートを用意して蔣介石を支援。

アジア進出に出遅れた米国はアジア・太平洋へ介入する機会を伺い、日露戦争後、満洲鉄道の経営を通じ中国大陸に進出しようと試みたが、失敗。

こうした日本による大陸での勢力拡大に対して欧米は深い脅威を覚え、いずれ日本が石油などの天然資源を求めて米領フィリピンなど、欧米が東南アジアに持つ利権(植民地)を脅かす存在となるのではないかと懸念し始めました(「南進論」)。

また同時に、日本の勢力拡大が独立運動への機運が高まってきていたインドを始めとする「植民地」に影響を及ぼす事に対しても警戒。

https://youtu.be/MEgIHN63ojU

1941年に日本はソ連と不可侵条約を結んだ後、フランス政府との合意に基づいて仏印進駐を行い本格的に南進を実行。

遂に米国は日本に対して経済制裁を課し、英連邦やオランダも歩調をあわせ制裁開始。

近衛内閣は日米交渉をまとめられず総辞職し、東條内閣は米国が提示したハル・ノートを事実上の最後通牒と判断し拒否。

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※NYTによるハルノートが日本に送られた際の記事

https://www.nytimes.com/1938/02/06/archives/text-of-hulls-note-text-of-u-s-note-sent-to-japanese.html

マレー作戦・真珠湾攻撃(奇襲についての賛否は別で)を行い宣戦の詔書を発表し、米英との開戦に。

日本は列強全てを敵に回し苦戦を強いられていましたが、大東亜会議において大東亜宣言を採択、大東亜共栄圏の構築を世界に示しました。

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「大東亜共同宣言」

そもそも世界各国がそれぞれその所を得、互いに頼り合い助け合って全ての国家が共に栄える喜びをともにする事は、世界平和確立の根本です。

しかし米英は、自国の繁栄の為に他の国や民族を抑圧し、特に大東亜(東アジア全般)に対して飽くなき侵略と搾取を行い、大東亜を隷属化する野望を剝き出しにし、遂には大東亜の安定を根底から覆(くつがえ)そうとしました。大東亜戦争(太平洋戦争)の原因はここにあります。

大東亜の各国は、互いに提携して大東亜戦争を戦い抜き、大東亜諸国を米英の手かせ足かせから解放し、その自存自衞を確保し、次の綱領にもとづいて大東亜を建設し、これによって世界の平和の確立に寄与することを期待しています。

  1. 大東亜各国は、協同して大東亜の安定を確保し、道義に基づく共存共栄の秩序を建設します。
  2. 大東亜各国は、相互に自主独立を尊重し、互いに仲よく助け合って、大東亜の親睦を確立します。
  3. 大東亜各国は、相互にその伝統を尊重し、各民族の創造性を伸ばし、大東亜の文化を高めます。
  4. 大東亜各国は、互恵のもとに緊密に提携し、その経済発展を図り、大東亜の繁栄を増進します。

大東亜各国は、すべての国との交流を深め、人種差別を撤廃し、広く文化を交流し、すすんで資源を開放し、これによって世界の発展に貢献します。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A7%E6%9D%B1%E4%BA%9C%E5%85%B1%E5%90%8C%E5%AE%A3%E8%A8%80

これは東京・帝国議事堂で1943年11月に開催されたアジア地域の首脳会議の2日目に満場一致で採択されています。採択後にビルマ国代表のバー・モウ内閣総理大臣が「自由インドなければ自由アジアなし」とインド独立を支持する意見を述べ、オブザーバーとして出席した自由インド仮政府のチャンドラ・ボース首班が自由インドの確立を表明しました。

https://youtu.be/7vQ6nxBRGd8

しかし、サイパン島の陥落でB-29による日本本土空襲が始まると、東條内閣は責任を取って総辞職。

日本と欧米が大東亜戦争を始めた事を契機に、蔣介石は毛沢東共産党の排除の動きを強めた為、第二次国共合作は実質的に崩壊。

共産党は国民党と交戦しつつ国土の大部分を占める農村部で反日運動を広め、八路軍を組織して抗日ゲリラ戦を同時に展開しました。こうして中国戦線も泥沼化して行く事になります。

端的に言うと、大英帝国を中心とした欧米が清をズタボロにしたのを脅威と見た日本が、日本への欧米の経済的な侵略が始まったこともあり、欧米ロシアによる日本侵略の玄関口となる朝鮮半島を支配。

日本と清が朝鮮半島支配を巡り争う中で、清が弱体化。

日本はロシアをロスチャイルド支援で破り、中国に進出加速。

しかし、それで生まれたソ連コミンテルンが国民党と共産党を育成。日本を苦しめていく。

その後、中国を制覇する勢いで勢力を伸ばし、ナチス、イタリアとも手を結んだ日本にアジアの利権を脅かされると慌てた欧米が日本に経済制裁開始。

そのまま第二次世界大戦に。。。。

こうして見ると、明治維新から第二次世界大戦までなるべくしてなっていますよね。

しかし日本は破れましたが、全世界に植民地を持っていた大英帝国も衰退し滅んでいます。

これら近代史について私達は全く教科書で教えられてきていません。意図的に避けているのかと思うくらいに。自国の歴史を知る事なくして、今を、将来を考える事はできないのではないでしょうか?

これは初心者向けに無料にしていますので、より多くの方に読んでいただきたいと思っています。