中国が高市首相の台湾発言に「過剰反応」した理由

インド太平洋地域に焦点を当てて世界でも有名なライターによるグローバル・レポートやアナリシスを提供しているThe diplomatによる分析です

· China News
Section image

トーマス・ライリー
2025年11月19日

ある中国の高級外交官が、高市早苗首相に関するニュース記事を公にリポストし、「出しゃばる汚れた頭は叩き斬らねばならない」と書き添えた時、多くの人々はそれを感情的な反応、つまり愛国心の強い中堅クラスの外交官による、ある意味では理解しうる一時的な怒りの表出と受け止めた。

Section image

「人間なのだから、そういう事もある」と。しかし、中国の厳格に管理された情報空間において、政府関係者の発言はほぼすべてが事前の統制か、事後の厳しい責任追及の対象となる。

そのように過激なレトリックには固有の意味がある。

大阪の中国総領事である薛剣氏によるこの挑発的な発言は、制御を欠いた暴走ではなく、日本が中国に異議を唱えるたびに見られる、意図的なエスカレーションというおなじみのパターンの一部として理解されるべきである。

今回の一件は、高市首相の国会答弁から始まった。中国による台湾への武力攻撃が、いかなる条件で日本の安全保障上の脅威となりうるかを問われた高市氏は、中国による台湾への武力行使や軍艦の展開が、日本の安全保障関連法における「存立危機事態」に該当しうると答えた。

これは東京の地域情勢観から大きく逸脱するものではない。

Section image

高市氏の発言は、台湾の安全保障を日本の安全保障と結びつけた安倍政権期の言明をなぞるものであり、過去の米国大統領が繰り返し示してきた「台湾防衛のための武力行使の用意」と比べれば、遥かに穏当な内容である。

それにも関わらず、高市氏の発言は、メッセージそのものからみれば明らかに過剰といえる北京側の一連の反応を引き起こした。

中国はほどなく、日本大使を呼び出して厳重抗議を行い、東京は「火遊びをしている」と警告した。

更に薛氏は高市首相の「首を斬る」と受け取れる悪名高い投稿を行った(中国外務省はこの発言から距離を置くことを拒んだ)。

こうした公式な反応と、その後に続いた、検閲をほとんど受けない形で噴き上がったオンライン上の民族主義的怒りは、北京の手に余る自発的な暴走ではなく、中国政府による意図的な政治的演出として理解されるべきものである。

過去の日中間の緊張局面も、同じパターンをたどってきた。

日本が北京の望む歴史観や物語に異議を唱える時、民族主義的な熱狂は例外なく高まる。

しかし中国において、ナショナリズムは政府が単に「反応する」対象ではない。むしろ政府が能動的に管理し、ときに抑え、ときに煽る対象である。

オンライン上の怒りは、政権にとって有用であるときには容認され、不要になれば跡形もなく消える。国内政治と対外戦略の境界線は、しばしば曖昧である。

今回の火種のタイミングも示唆的だ。

高市首相は就任直後から高い支持率を維持し、最初の外遊も順調で、韓国・釜山でのトランプ米大統領との首脳会談も建設的であった。

防衛費の加速的増額、経済安全保障の一層の強化、台湾問題をめぐる率直な発言といった初動からは、日本が米国の背後に受動的に身をひそめるのではなく、自ら周辺の安全保障環境の形成に積極的に関与しようとする姿勢がにじみ出ていた。

北京はこれを注視していた。とりわけ、釜山でのトランプ・習会談後、中国が自らを米国と対等な大国として位置づけようとするさなかで、高市氏のこうした姿勢は、中国にとって都合の悪い物語を提示するものであった。

北京は日本を、地域の主役ではなく「脇役」として扱うことを好む。

だが、高市氏の順調な滑り出しへの中国の忌避感だけが問題なのではない。中国国内では、経済成長の鈍化、高い若年失業率、社会的不満の高まりなど、圧力が増している。こうした状況では、対外的な緊張が政治的に有用な道具となる。

過去10年に渡る日中間の海洋紛争をめぐる緊張の高まりは、この力学をよく物語っている。中国側の圧力の高まりは、日本側の行動の変化に対応したものというより、中国の国内政治的ニーズの変化を反映していた。

今回も同じ論理が当てはまる。台湾に関する高市氏の発言は、中国の過激な反応が示唆するほど、前例を打ち破るものではなかった。

変化したのは北京の政治的計算である。経済成長など「成果」に基づく正統性が揺らぐ中、中国共産党は、国内の結束を維持する為に、以前にも増してナショナリズムに依存するようになっている。

そして一度ナショナリズムが高揚する事が許されれば、日本は格好の標的となる。

決して東京がことさらに挑発的だからではない。日本が、中国にとって極めて有効な象徴だからである。

中国の公式声明にはおなじみの「歴史に学べ」という言葉が繰り返し登場し、現在の政策対立を「屈辱の百年」に遡る歴史的怨念と結びつけようとする。この枠組みは二重の目的を果たす。すなわち、中国が望む国民的物語を補強すると同時に、日本を「繰り返し現れる敵」として描き出すのである。

そうしたナショナリズムの高揚が、いま許容されているという事実は重要だ。

中国は長年、とりわけ対日感情をめぐる「歯止めなきナショナリズム」が中央集権的な統制を脅かすことを恐れてきた。したがって北京は、今回の対日感情の噴出に、何らかの社会的機能を見出していると考えられる。

その社会的動員の広がりは、中国の対応の多層性にも表れている。

外交面での抗議にとどまらず、中国政府は自国民に対し日本への渡航自粛を呼びかけ、国営メディアを通じて日本を「挑発的」と描く論調を増幅させた。

これらはすべて、物語の主導権を握ろうとする試みである。

北京は、あたかも外部からの挑発に「やむなく対応させられている」かのように装うことを好むが、実際には中国政府自身が最初の反応のトーンを決め、徹底したオンライン検閲を通じて、その後の世論の範囲をも規定している。この反応は、日本側の行動というより、中国の国内政治上の計算をより多く物語っている。

在外公館の総領事が、外国首脳の「首を切る」といった趣旨の発言を行ったことは、おぞましいだけでなく、示唆にも富む。

薛氏の投稿は、第一義的には日本に向けられたものではなく、中国国内の特定の聴衆に向けられていたのである。今回の一連の緊張激化は、北京がいかに象徴的なエスカレーションを管理し、その場その場の政治的必要に応じてナショナリズムを「起動」するかを示す格好の事例といえる。

高市氏の発言が「危機」を生み出したのではない。

北京はすでに、日本に「一罰百戒」を加える口実を探しており、高市氏の発言は、そのための格好の材料を提供したにすぎない。中国の最も過激な外交的反応は、多くの場合、対外的な脅威というより、自国が抱える内部の脆弱性を映し出している。そして日本は、常に狙いやすい標的であり続けている。

日本にとっての教訓は、自国の政治的目標を追求し続ける一方で、自らが中国国内向け「政治劇場」の一登場人物として扱われる事を自覚せねばならないという点である。東アジアの他の国々もまた、この点を心に留めておく必要がある。